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【冶金学から紐解く】庖丁を寝かすメリットとは?

『庖丁を寝かす』とは?

昔は鍛冶屋が打った庖丁の生地が刃付け師の手元に渡った後、数年間寝かしてから手を加え、出荷するのが一般的だったそう。

3~5年、長いと10年以上もの間倉庫で眠らせておいてようやく商品として手が加えられる状態になるとおっしゃる方もいるのですが、現在では受注量の多さや手間がかかることから、あえて寝かせることは殆どないようです。

果たして庖丁を寝かせることでどのようなメリットがあるのか?そもそも寝かせることに意味はあるのだろうか?この疑問を炭素鋼を例に専門的な資料やデータの観点から紐解いていきましょう。

炭素鋼とは?

合金成分を含まない鋼材のことで、主に白紙1号や白紙2号(日立金属)があげられる。

炭素鋼の組織変態

刃物に使用される鋼材は熱処理の工程を経ることで初めて庖丁としての性能を得ることができます。

(*詳しくは前回の記事を見てから続きを読むことをお勧めします。)

基本的に鋼材は熱の加え方によってA→B→Cの順に組織体が変化します。

鋼材を高温に熱したあと、急冷することでB組織(オーステナイト)がC組織(マルテンサイト)に変化するのですが、100%マルテンサイトになるわけではなく、一部のオーステナイトが変態しきれずに残ります。これを残留オーステナイトと言います。一般的には金属に含まれる炭素の量が多いほど、残留オーステナイトの割合も高くなる傾向にあります。

マルテンサイトの方がオーステナイトよりも体積が大きいため、応力が加わったり時間の経過等によって組織が変化し、体積の誤差分が歪みとなって庖丁に現れるという原理です。

多くの庖丁が地金方向、右利きの庖丁であれば右方向に反り返る理由は刃金に残留したオーステナイト組織がマルテンサイトに変化し膨張するためです。

この事から、歪みの範囲を少なくするためには残留オーステナイトの割合を極限まで下げる必要があるのです。

『庖丁を寝かせる』メリット

勘の良い方はもうお分かりだと思いますが、庖丁を長い間寝かせる理由は可能な限り残留オーステナイトを減少させ、組織を安定させるためです。

実際に精密機器を扱うようなメーカーでは完成後の経年変化による誤差を極限まで抑えるため、熱処理の温度管理を厳密に行うことを大前提として、焼き入れ後2年、焼き戻し後2年、研磨後1年の計5年間寝かせたうえで再度検品をして初めて出荷をするそうです。

庖丁にそこまでの精密さを求めるかの議論はさておき、このように一定期間寝かせることで刃付け工程で生じる歪みや、完成後の経年変化による歪みを軽減する事が可能になります。

刃付け工程においては、作業の効率化が図れますし、使い手にとっては研ぎやすさや扱いやすさといった面が改善され、庖丁をより長くお使いいただけるようになるのではないでしょうか。

その他の解決策はあるのだろうか?

サブゼロ処理を施す

僕自身が実際に堺の職人さんの元を訪れてみて、ふと『何故炭素鋼に対してはサブゼロ処理をしないのだろうか?』と疑問に思いました。

仮に、工程が増えることによる手間と経費を考慮しないのであれば、ステンレス鋼同様にサブゼロ処理をすることによって残留オーステナイトを限りなく減らす事が可能である、というのが僕の仮説です。資料やデータから見てもほぼ間違いないとは思いますが、あくまでも予想の域を出ません。

マルテンサイト組織はオーステナイト組織よりも硬度が高く、耐摩耗性に優れているため、経年変化による歪みを防ぐだけでなく刃物自体の性能を大幅に改善することが可能になるでしょう。

【サブゼロ処理とは?】

熱処理の一種で、主に焼き入れ後の鋼材を0℃以下の環境で急速に冷却することです。

-100℃までをサブゼロ処理、-130℃以下を超サブゼロ処理と言い、主に炭酸ガスや液体窒素などを使用して処理を施します。

温度が低いほどマルテンサイト変態を促す効果が期待でき、硬さの均一性や耐摩耗性の向上・経年劣化を防止するなど多くのメリットがあります。

刃金の厚みを調整する

合わせ庖丁の場合は刃金の厚みを薄くする事でマルテンサイト変態が進んだ場合でも、その割合はごく僅かなので地金によって反りを抑えつける事が可能なり、これもまた解決策の一つになり得ると思います。

実際に伺ったお話しだと、昔の和庖丁は現在のものよりも刃金部分が薄かったそうです。

刃金を薄くしたとしても食材を切る作業において影響は殆どないと思いますが、刃付けの際に裏を削りすぎないように今まで以上に慎重になる必要があるでしょう。

したがって、サブゼロ処理を施し、歪みを軽減した上で刃金を薄くするというのが最も理想の形かもしれません。

今回は庖丁を寝かせるメリットについて様々な資料や書籍、職人さんや専家の方のお話も参考に書かせていただきました。

職人さんが庖丁を作るにあたって、何故この工程を行なっているのか?と純粋に疑問に思うが多く、ある程度理解できるまで自分で勉強したり、それこそ職人さん方や藤原さんのような方にお会いする機会があればお話しを伺ったりしています。

何でも知りたくなる性分なので、面倒くさい奴だと思われているかもしれません(笑)

現在は周りの人に本当に恵まれていて、素晴らしいご縁を沢山いただいているなと感謝の気持ちでいっぱいです。

ご購読ありがとうございました。

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